ガラケー男

 

あおり運転で捕まったとか、そんな話ではない。

 

先日、ツーリング中に土砂降りに遭い、スマホが水没したため、現在一時的にガラケー(予備機)を使用している。

 

何故ガラケーか。かつて北海道一周の折、夕張の山の中で土砂降りに遭い、同様にスマホが水没して死んだ。当時、たまたまスマホ依存から脱却したかったという思惑もあり、ガラケーを購入した。結果的には脱依存とはならず、予備機として眠っていた。

4G回線には対応しているものの、カメラ無し、メーカーサポートも打ち切られているため、電話とSMSしか使えない。そんな代物である。

一応Webブラウジングは可能だが、現在のWebサイトは軒並みスマホからの閲覧を前提としているものが多く、ガラケーからは見るに堪えない。

 

とまあ、そんな状態なのでネットはPCからのみと、一時的に10年ぐらい前の生活スタイルへと回帰している。当然Twitterへのアクセスも大幅に減った。

無駄にTwitterを閲覧しないため、諸々の地獄を見る機会が減り、精神衛生は非常によろしい。

 

 しかしながら、この時代、大抵のことはスマホ(アプリ)を使用する。モバイル決済はもちろんのこと、会社の緊急連絡網やら旅費精算やらもアプリを使用する。長期的には支障が出ることは目に見えているため、さすがに新しい端末を手配した。

 

 新しい端末が届くまでの間、つかの間の平穏を楽しむとする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

アパートと光回線

 去年の7月に仕事を辞めてから、8ヶ月近くふらついた後、今年の4月で再就職となった。
 また実家を離れたが、突貫で引っ越したため、色々と拠点(アパート)の態勢が整っていない。
先日、洗濯機が届いたが、冷蔵庫はまだない。正直、このシーズンの引越しを舐めていた。

と、まあそんな状況だが、一番しんどいのはネット回線がまだ来ていないことにある。これは繁忙期というのもあるが、今回引っ越したアパートにそもそも光回線設備がないというのも大きい。築20年以内ということもあり、「さすがに来てるだろ」と思い、不動産屋に確認しなかった自分も悪い。

申し込んで通信事業者に言われたのが、まず「回線設備が一切ないため、マンションタイプでなく、ファミリー(戸建)契約になる」ということだった。調べて知ったが「集合住宅の場合、4戸以上の契約が見込めないと共有設備として置かないため、戸建契約になる」らしい。

さらに業者から言われたのが「不動産屋(管理会社)への穴あけビス止め工事の認否確認」である。これも調べて知ったが、光回線の工事というのは基本的に建築物内の配管(電話線が通っている)やエアコンダクトに光ファイバーケーブルを通すため、穴あけやビス止めは必ずしも発生しない。ただ古い物件や配管自体が破損していた場合は、穴あけが必要になる。
不動産屋に確認したところ、「光回線を引くのは問題ないが、穴あけやビス止めは許可できない」との回答だった。
その回答をもって通信事業者に再度申し込んだところ、「事前調査で穴あけビス止め無しで工事できるか確認する。もし不可能だった場合は諦めてください」との回答が返ってきた。

月末に調査予定だが、開通できるかは未定である。光回線ひとつ引くのにここまで面倒になるとは想定外だった。今後、引っ越す際はネット環境は絶対確認すべきと思った。

幸せです

 先日、ある取引をしていた際、メッセージに「○○いただけると幸せです」という一文が添えられていた。「幸せ?何のことだ?」と一瞬考えたのちにある可能性が浮かぶ。


「まさか、“幸いです”の意では?」と。


いや確かに字面は似ている。というか同じ漢字ではある。「幸いです」を「幸せです」と見間違う可能性は十分にあり得る。だが、読みが全く違う。送り仮名も違う。「幸せです」と入れてくるということは、「幸いです」と添える場合、パターンを理解しているということである。しかし、「幸せです」と相手は入れてきた。

 考えられる可能性としては普段から「い」を「せ」と認識しているのか。他人が「幸いです」と添えてきた時、「この人、送り仮名間違えてんじゃん」とでも思っているのか。

 奇妙な一文を添えてきた相手だったが、その後のやり取りは特段問題なく進んだ。だが、「幸せです」の一文で自分は色々と疑り、警戒態勢を取り、と余計な力を使った。

相手を警戒させないためにも正しい文章の重要性を思い知った一件であった。

芋の子汁

 この時期は大体、芋の子汁を食うことが多い。「芋煮」呼びの方が一般的かもしれんが、ここいら一帯は「芋の子汁」と大体呼ぶ。

呼び方はさておき、芋の子汁(芋煮)は地域によって、色々とバリエーションがある。味付けのベースが醤油だの、味噌だの。使う肉は鶏だの、豚だの、牛だの、と。

 

 基本的に自分の場合、醬油ベースの鶏肉になる。味噌にしない理由は普通の味噌は一晩置くと味が落ちるため、作り置きには適さない。鶏肉にする理由は単に安いからである。そのため豚肉が特売であれば普通に豚肉を使う。牛肉?そんな高いもん使うわけねえだろ、でまず使わない。また醬油ベースとは言いつつ、味付けに使うのは醤油でなく、めんつゆである。醤油ベースにしているのも、めんつゆの使いまわしが利くという理由による。こう述べていると、味の好みうんぬんでなく、単に材料の調達のしやすさやら、使いまわしやらで決まっていることがわかる。

 

 芋の子汁自体、ニンジンやらゴボウやらの野菜(ビタミン)、こんにゃく(食物繊維)、サトイモ(炭水化物)と栄養バランスが取れている。汁物兼主食でそれ一杯で済ませることも多い。ただし、加熱する関係上、ビタミンCは摂りづらい。そこはネギ(生)でも添えて補ってほしい。

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型にはめる

 最近、就活に伴いスーツ姿でいることが多い。面接の時だけではない。職業相談だろうがセミナーだろうが、本来スーツでなくてもいい場でも就活にかかわるのであれば、スーツ姿にしている。

 

 何故、そんなことをしているかといえば、そうでもしなければ人としての形を保てない。正直、仕事を辞めて以降、枷が完全に外れており非常にダラしない。会社員という肩書が自分を最低限、人の形にしていたのではないかと今にして思う。ただあのまま仕事を続けたとして、死ぬのは確実だったため辞めたこと自体には後悔はない。

無職という立場でありながらも、スーツで形だけでも整えることで無理やり人の形を成そうとする。そういう意味合いでスーツを着ている。

 

 よく「型にとらわれない」「自由な生き方」等々が叫ばれるが、正直そんなもんは強者の生き方であって、大抵の人間は型から外れれば消える。

型にはめることで初めて人として体を成し、そういう人間がいるからこそ社会は成り立っているのではないかと最近思う。

アルカリ熱水

 タイトルから何か科学的な話かと思うかもしれないが、今回は掃除の話である。

 

 現在、無職のため基本やることがない。そのため、実家の掃除を進めている。ハッキリ言って実家は相当に汚い。ゴミ屋敷というほどでもないが、基本的にエアコンやら空気清浄機やら「フィルタを最後に洗ったのはいつだ!!!」と言い放つ程度には親はそういうところは一切掃除しない。

 

 そんなこんなで今回は電子レンジを清掃していた。壁面は半ば炭化した油でギトギトであり、「油汚れならアルカリだろ」でドラッグストアに洗剤を買いに行った。そこで目についたのが「アルカリ電解水」。この電解水、かれこれ十何年ぐらい前から見かけるが、いまいち実態がわからないため使ったことがなかった。調べた結果、電気分解により生じた水酸化ナトリウム希薄水溶液であることが予想された。

そこで「アルカリ水溶液なら重曹水でいいだろ。ついでに加熱すればいいだろ」で重曹水を煮沸したものを布に染み込ませ拭き上げた。結果、汚れは落ちた。

 この重曹熱水、油汚れに強いため、ガスレンジ、グリル等々にも使える。ついでに皮脂汚れにも使えるため、クッションフロアのベタツキにも対応する。ただし強アルカリのため、保護手袋は必須。素手で使えば爛れる。

 

まとめ「油汚れ(皮脂汚れ)には重曹熱水が効く」

 

 

時給1000円

 現実の最低賃金は別にして、「人ひとりを1時間拘束すれば、1000円の人件費が発生する」という思想の下に生きている。1日ともなれば、1万円を覚悟する。

 この思想に至った原因は過去の節約生活にある。かつての自分は食事は自炊。買物は安い店を使う、といった具合に節約に努めていた。だが、自炊は調理時間を取られ、買い物は移動に時間を取られ、と時間的な消耗が高く、余裕を欠いていた。そんな生活を続ける中、徐々に仕事の負荷が上がっていき、心身とも生活に対する余裕がさらになくなっていった。そんな状態にも関わらず、一度決めたことは断固として押し通す性格から節約生活は続いた。結果、一度精神が破綻した。

 立て直しをしていく中で、食事は冷凍食品を買ったり、カットサラダを買ったり、弁当を買ったりと省力化が図られていった。買物に関しても、基本的に通勤経路のスーパー、コンビニを使ったりで、わざわざ安い店に時間をかけて行くことも無くなっていった。そんな感じで負荷を減らしていくことで徐々に回復していった。

 手間を省く、楽をすれば、精神的な負荷は下がるが、それだと浪費が激しくなり、それはそれで経済的に生活が成り立たなくなる。そこでその判断基準として使っているのが、冒頭の「時給1000円」である。「1時間かけて1000円以上の節約、あるいは利益が見込めないなら、やる価値はない」と判断する。簡易的な指標として使えるため、都度電卓を叩いて細かく計算する必要もなく、精神的負荷と経済的負担のバランスを取れるためなかなかに便利である。またこの基準、他人に何かを手伝ってもらったり、依頼したりする場合にも使っている。そんなコスト感覚で普段は生きている。

 時給1000円の価値があるか否か。節約をするなら、ぜひ試してもらいたい。